リレーエッセイ

私と漢方との出会い

私と漢方との出会い

リレーエッセイ | 第12号投稿記事(2023年9月)  新井 信 先生

「漢方の魔術師」に憧れて

新井 信

東海大学医学部専門診療学系漢方医学 教授

 
 昭和33年、私は埼玉県秩父市で薬局の次男として生まれた。父は独学で漢方を勉強して、91歳を過ぎた時までずっと現役で漢方を中心とした相談薬局を開いていた。私は幼い頃から父の調剤室に並べられた生薬を見ながら育ったため、いつしか父の姿と自分の将来を重ね合わせるようになった。小学校6年生の時に「10年後の私」という文集に「漢方の魔術師になっているだろう」と書いた記憶がある。
 私は薬局の後を継ぐためにいったん薬学部を卒業したが、2人兄弟の兄が医学部に進学したこともあり、どうしても医学を学びたくて、海軍薬剤官上がりの頑固な父を何とか説得して医学部を再受験した。卒業後は東京女子医科大学消化器内科で西洋医学の研鑽に励むと同時に、その傍らで漢方薬も時々処方することがあった。 医師になって初めての夏、私にとってのビギナーズラックが訪れた。肝硬変で食道静脈瘤硬化療法を目的として入院していた小太りの老女であった。入院後に途中から担当になった研修医の私が「治療がうまくいってよかったですね。これで安心ですよ。」と声をかけると、「ありがとうございます。でも、ちっとも良くなっていないんですよ。」と。よく聞いてみると、ゲップがつらくて大学病院を受診したものの、そこで初めてC型肝硬変と食道静脈瘤が発見されたそうだ。当然、そのために入院となったのだが、その治療はうまくいっても、一番つらいゲップが少しも良くなっていないと言うのだ。私は漢方薬で何とかできないものかと考え、実家の父に電話した。父は一通りの状況を聞いた後、「それは生姜瀉心湯だ。家族に八百屋で生姜を買ってきてもらって、それを親指の頭くらいすり下ろして、お湯に溶いた半夏瀉心湯エキスに加えて飲ませてみたらどうだ。」と言う。私はすぐに父の言う通りにした。2日後、その患者の所に行くと「先生、止まりましたよ。」と満面の笑みで迎えてくれた。この患者にとって西洋医学だけでは不満足だったが、漢方と西洋医学の両方で治療することで、本当の意味での治療ができた、私にとっては初めての非常に衝撃的な症例だった。

 平成4年3月、女子医大に附属東洋医学研究所が開設され、それに合わせて私も消化器内科から東洋医学研究所に移籍した。そこで当時、代田文彦教授と佐藤弘助教授と出会い、さらに私が生涯、師として尊敬している松田邦夫先生にお会いすることができた。そして、北里研究所東洋医学総合研究所では大塚恭男先生、丁宗鐵先生という大家の先生方に教えを乞うた。その後13年間、女子医大は患者数も多く、漢方の臨床を本格的に勉強するうえで最高の環境だった。 私の夢はそもそも「漢方の魔術師」、つまり非常に腕のよい漢方臨床医になりたいということだった。かつて、私の師匠から「患者を自分の親だと思って治療しなさい。」と言われたことがあり、日々の診療では、臨床医として、漢方はもちろんのこと、西洋医学も含めた総合的視点からの診療を極力心がけている。そして、さまざまな治療で治らなかった患者が漢方薬で良くなったと喜んでくれることが、今も私にとっては何事にも代え難く、まるでバカではないかと思うほど嬉しい。ところが、大学に在籍するということは、臨床だけでなく、教育、研究、普及啓蒙、さらに会議や学会業務など、たくさんの業務をこなさなければならない。そのため、一時は漢方専門で開業しようかと考えたこともあった。しかし、大学教育に長年携わっていたせいか、次第に「開業は年を取ってもできるけれど、個人レベルでとどまっている漢方を大学で広めることは今しかできないだろう。」と考えるようになった。 大学で自分が考える漢方を自分の思うようにやりたい。そんな思いで私が東海大学に移籍したのは平成17年のことだった。ある漢方メーカーの寄付講座だったが、西洋医学のど真ん中に一人で入り込んで、西洋医学とはまったく異なる漢方を大学医学部で認知させるにはどうしたらよいか、まさに行動力と実績が問われる日々が続いた。その結果、徐々に漢方に賛同してくれる先生方が増え、移籍から10年たった平成27年、ついに医学部正規講座として専門診療学系漢方医学を立ち上げることができた。そして、2年後の平成29年、私は漢方医学初代教授の任に就いた。漢方一途に駆け抜けてきた人生だったが、来春、令和6年3月で私は大学を定年退官となる。ある意味、これからが今まで一番やりたかった漢方臨床に専念できるかもしれない。小学生の頃から夢に描いていた「漢方の魔術師」に一歩でも近づけるように。